岡部宿は、東海道五十三次の、日本橋から、21番目の宿場町。
東海道本線が、静岡から、岡部経由となるか、焼津経由となるかでこの町は大いに沸いたと言う。
結局、焼津経由と成った為、その後は町としては衰退していった。
一方、長い間、国道1号線が町を通過した為、車社会と同時に、再び町は隆盛を極め、静岡市のベッドタウン
としても発展して来た。
しかし、国道1号線もバイパス化され、車の往来も少なくなり、藤枝市との合併により、再び繁栄を目指して
頑張っている町のように見える。
東海道本線開業後、藤枝と相良を結ぶ籐相鉄道が、1925年藤枝大手駅から駿河岡部駅まで延長開業されたが
わずか、11年後の1936年廃線となってしまった。それ以来、この岡部宿は、鉄道とは縁遠い町となっている。
この藤相鉄道は、袋井駅を起点とする中遠鉄道と合併して、駿遠線と成ったが、1970年全線廃止された。
話を元に戻して、この岡部宿には、まだまだ昔の面影が残っている。
岡部宿大旅籠 「柏屋(かしばや)」
国の登録有形文化財に認定されている、岡部宿の代表的な旅籠。
現在の建物は、天保7年に建てられた建物で、柏屋山内家は、岡部でも屈指の名家だったという。
今の建物は、2度の大火に見舞われた後、3代目として1836年に完工。176年を経た今日でも貴重な
建物とされている。
西住法師 笠懸の松
西行法師が、弟子の西住法師と共に、東国の旅に出て、天竜川の渡しで、西住が武士といさかいを起こして
しまった、西行は、西住を破門にして、東国に向かった。
西住は後を追ったが途中で疲れから病気に成り、岡部宿のこの地で息を引き取ったという。
その際、松に懸けてあった笠に、「西に行く 雨夜の月やあみだ傘 影を岡部の松に残して」と書いてあった。
その後、西行が岡部宿を通り、此処に投宿の折、宿の人から、この話を聞き、残された笠を見せてもらった所
間違いなく弟子の西住のものとわかって驚き、村人に教えられてその墓におまいりし、涙ながらに歌を詠んだと
言う。 「笠はあり その身はいかになりならむ あわれはかなき 天の下かな」
この松は、30年前に落雷で枯れはて、二代目が植えられている。
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