徳川四天王の一人である、井伊家は、遠州出身(現在の浜松市引佐町井伊谷)で、榊原氏・
鳥居氏と並び、三河岡崎藩の御普代を勤め、今川義元に仕えていた。
上野国高崎藩主であった井伊直政は、国替えにより、近江国彦根に城を築き、初代藩主に成った。
直孝は、直政の次男で、長男直勝が病弱の為、二代藩主と成った。
”桜田門外の変”で水戸藩の浪士に暗殺された”井伊直弼”は15代藩主である。
井伊直孝 産湯の井戸
中里に住む、村松五作さんの家の、敷地の中に、井伊掃部頭直孝 産湯の井戸が残っている。
父直政がある時、東海道を通り、岡部宿へ泊まることになった折、そこで、お殿様をもてなしする娘
を探したところ、”中里小町”と言われる美しい娘が見つかり、お殿様も満足し、気に入られたと言う。
その後、その娘は、男の子を産み、この子(弁之助)が、後の井伊直孝でした。後に、直政は、この母子を
城に向かえ入れ、成人した弁之助は直孝と名を変え将軍家に仕たえた。
若宮八幡宮
寛永六年(1629年)彦根城の殿様であった直孝は、自分の生まれた所が、中里であることを知って、
村の社に、八幡宮をお祭りしたと言う。八幡宮に残る、棟札(長さ 152.2Cm 厚さ 3.6Cm 重さ5Kg)
がその証として残っている。この棟札は焼津市の書跡/有形文化財となっている。
建立時に架けたと思われる、入り口の石橋は、今でも、残っており、焼津市の指定歴史建造物/有形文化財となっている。
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